除雪機












今朝の米沢は結構な積雪があり、除雪機の世話になる。始動は俗に左右されないリコイルであり、幾多の故障にもめげず三十数年間が経つも、今だ現役である。山わっしゃこも斯くの如くありたい。

ローバー ピッツブインGTX








行かれるはずもないが、厳冬期の朝日飯豊連峰縦走にも対応する仕様の一足
黒の表革と赤い平紐は往年のMAINDL「スーパーマッターホーン」を彷彿とさせる。

朝日連峰 祝瓶山













11月21日(日)
愛せし祝瓶山を仰ぎ見れば黄金の色に染まりて、やがて来るのであろう白い世界へと移行の様相を呈していた。半年振りに履くEigerは鈍重で霜が張り付く吊り橋は冷や汗をかき、ビブラムを木の根や石に乗せようものなら滑らせられたり慣れに時間がかかる。ヌルミ尾根のブナ林を抜ければ背に大朝日岳から連なる主稜線を背負い、前面に宇津峠で飯豊に繋がる三体連山を目で追いながらの登行が続く。通常の岩場を避け内緒のルンゼで山頂へ達した。パノラマは言うまでもなく360度であったが風邪気味の身には微風も堪えそそくさと往路を降る。桑住平にて、クマさんにとあさひに託されたドングリを路傍の石の上に2っ、3っ置き人足のない道を急いだ。

ハンガロテック















いっとなく西高東低の気圧配置となり、山は冬の範疇に入ろうとしている。長年履いた重登山靴に防水油を沁み込ませ、樏にもアマニ油を塗るのは例年の作業である。まだ早いピッケルとアイゼン、シャベルの手入れは先となる。足回りの次に肝心なのは手袋である。高い防水のグローブと毛のインナーは、まだ持つことを確認。最後に引っ張り出したのは、今は作る人もいなく疾うに生産中止と聞くお気に入りの「ハンガロテック」である。

あさひ



















山の母から名をもらった孫娘「あさひ」は五歳と成りつつあり、祝いの写真に納まった。
山わっしゃこに似ず、美しい人である。

飯豊連峰 飯豊山





















10月23日(土)
石にさせられた姥も通ったであろう中津川参拝道はザンゲ坂で洗礼を受け、長之助清水に山の水の甘さを知る。ダマシと名の付く山はたいがい頂は踏まず肩辺りを搦むもので朝日のダマシ御影然りこのダマシ地蔵も其の通りである。あわただしく通り過ぎた登山者の行く先の尾根を追えば地下足袋を責付く。右手に本山を仰ぎ見て高度を上げれば主稜線と繋がり、僅か行けば登山者が疎らの切合小屋であった。関門の草履塚はこのコース最大の突起で恨めしいが、これより視界は広がり本山と対峙する大日岳が牛首山を従い櫛ガ峰を経て水晶尾根にスカイラインを延ばしている。白い花崗岩礫地の御前坂に今年見逃したイイデリンドウとヒナウスユキソウに思いを馳せれば、本山小屋に辿り着いた。四周総ての展望が利く稜線を闊歩すれば飯豊本山で、今年最後となろう山頂からの展望を楽しむ。降りは多くの登山者と行き交い、切合から主稜線を離れれば、ツルベ落ちに陽が落ちて暮れた。

飯豊連峰 大日岳




10月2日(土)
裏川メッケ穴沢を遡行し大日岳に登頂後、オンベ松尾根を経て湯ノ島小屋に降ったのは昭和59年であった。湯ノ島小屋はブナ林の中にひっそりと佇んであったのは変わりはないが、往時を回顧すれば、随分と様変わりし、登山道に上がるまで、しばし間誤付く。昔、足を濡らしたアシ沢は簡易パイプの橋を渡る。前川を挟む鏡山山稜が後方へと移れば月心清水で、旅立ち姿のお地蔵さんは当時のままであった。ブナは切れ一気に視界が広がるも、今しがたやらかしたとおもわれる熊の糞を見れば、景色を楽しむ気も失せる。一服平を越し櫛ガ峰を搦めば、牛首山までの西面は紅葉の真っ只中で、主峰飯豊本山を取り巻くたおやかな山並みも徐々に色付き始めていた。牛ガ首鞍部より高度差240m余りをノラリクラリと詰め上がれば、人の子一人いない大日岳山頂で、文字の無い木標に遠い過去を追う。もう歩くことはない薬師岳からのヤブ尾根が曇一点もなく望まれ、彼方にうねる稜線が果てなく続いていた。御西から来た登山者と入れ替わり、飯豊山で一番高い山を後にした。着飾った尾根を離れ、青い尾根の末端で灯りを点け登山道へ出る。湯ノ島小屋に泊まるかぐらつくが、酒のない夜は哀しいので歩き出す。ゲートに戻ったのは15時間後で「一日八里(ひしてはぢり)」の山旅は終わった。

飯豊連峰 疣岩山

                    
                    
                    







9月26日(日)
疎遠であった長坂登山道の記憶はおぼろげであるが、弥平四郎集落のたたずまいに、昔日の懐かしさを思い出す。四ッ沢から登り上がれば、マナツボ鞍部から熊狩りで実川側へ越した証を見る。道すがら大量のブナハリタケをザックに収め、大日岳の展望台と渾名される鏡山に辿り着けば一瞬、飯豊本山から大日岳の主稜線を見る。これより進む登山道は起伏に富むも足運びはよく、八ッ小屋尾根と合わさる上ノ越を通過させ、どこがピークか分からぬ巻岩山を搦んで行けば松平峠に接続する疣岩分岐で、僅か北側の巻き道を辿れば三角点が在るのみの疣岩山は一投足である。山頂より三国小屋を望むが今日は遠く、引き返す事とした。往路は、八ッ小屋尾根とし登ってきた道を上ノ越まで戻る。途中の登山道上でカモシカの交尾を目撃、一目散に消えた藪から唸り声が聞こえていた。ブナに平成四年八月、某他六名、新長坂登山道伐開と切り付けのある登山道を下れば祓川駐車場に着いたが、弥平四郎を経て四ッ沢までの林道歩きは長かった。

朝日連峰 大朝日岳












9月18日(土)
日暮沢小屋からさらに根子川沿いをさかのぼり、才兵ェ滝上に架かる朝日橋の袂から歩き出す。その橋を渡れば登山道は右岸に並行につけられており、見えぬ竜門滝は瀑音で存在を知る。登山道は唐突に左に折れ、谷分レまで喘登が続く。水平道は距離を稼がせ、ハナヌキ峰を通過すればサンザノ清水で、小朝日岳に向かう励みとなる。たいして水筒も減らぬまま「キジ場の下の水は甘い」と言う説のある銀玉水で水を入れ替え、腰を据えれば、正面に急峻のヨコフッッケ沢が流れを落としていた。この沢は寡聞にして溯行記録は見当たらないが、縁ある山岳会が1ヶ月前に落としたと聞き及ぶ。ガス湧く主峰大朝日岳は視界もなく頂を踏むのみでそそくさと後にし、小屋番の方と二言、三言を交わす。中岳への途中、雑誌から抜け出したような山ガール、山ボーイに時の移りを感じつつ、中岳肩の慰霊碑に差し掛かれば、小屋番の予想通り雨が落ち始めた。断続的に降り続く雨と日差しの短さが気にかかる故に西朝日岳本峰は辞した。さらに主稜を真北に進めば御坪山辺りからガスが飛び、昔、沢を溯り辿り着いた袖朝日岳を見る。竜門山で縦走路を外れ、熊糞山、清太岩山を下れば日がとっぷりと暮れた日暮沢小屋に辿り着いた。

朝日連峰 祝瓶山












9月6日(月)
沢用ザックとハーネス、ガチャモノを引っぱり出し、沢登り仕度をするのは何年ぶりであろうか。ワンディで溯れる沢を選択した結果、昔、登下降を実践済みの祝瓶山南面、コカクナラ沢とした。履き古した沢足袋は心許ないが終わってみればフリクションが効き快適に溯れた。今日も暑いので進んで水線を求める。コカクナラ沢最大の滝20mは右岸の草付きを巻き、途中、下降の折の記憶が過ぎる。地元の山人は、ここら辺りまで山菜の取り場とし、毎年、大漁との事である。溯行の合間、腰を落とせば傍らにダイモンジ草が心を和ます。さらに現れた滝も巻きで通過、上部は穏やかなゴーロ歩きで退屈するも、登山道1270m辺りから下る沢を右に見送れば、岩壁帯下部のルンゼは天を突く。直下岩場は落書きのようにマーキングが塗り立てられ、遣った者の神経を疑う。沢足袋から地下足袋に履き替え、よく道刈りされたアカハナ尾根を下れば、戻った沢心に北叟笑む。

飯豊連峰 飯豊山












8月28日(土)
二ヶ月余り、山を離れた鉛の体は遅遅と進まず、五段山にて今回の計画は止むを得なく絶した。柔和な地蔵さまがおわす、地蔵山までの岩羽国境尾根は七寸幅に伐られるも、登山者にも行き会わぬ不遇の道に映る。三国岳の水場は細いとの風聞あり、川入登山道側に入り、飯豊の名水と名高い峰秀水5リットルを歩荷するも、直下にて3リットルの水を地べたに飲ませるヘマを打つ。空いていた三国小屋も夕暮れ時、団体組で小屋はスシ詰め状態と化し、通りすがり、袖振り合った流暢な日本語を話すオーストラリアの青年との酒飲みは分断され、何時しかシュラフ代わりとしたツェルトに沈没する。

8月29日(日)
朝食を済ませた彼は大きなザックを背負って、再び会おうと約束の本山へと一足先に向かった。管理人の大関さんに言葉を掛け後を追う。老骨にムチ打てば、彼は飯豊山頂で待っててくれた。知る限りのアドバイスをし、硬い握手は別れであった。下山路に中津川コースを取れば、そこにも新潟の山屋2人との出会いがあり、共々、灯りを必要とする寸前に大日杉に下り立った。

アタックザック
















長年、背負ったザックは、幾度もの補修で騙してきたが、とうとうホキ寸前である。山刀を佩き、地下足袋歩きを常とするゆえ、シンメトリーをとれば、武骨さとシンプルさを求めた。それは、キスリングを彷彿とさせる物で、型はヨコからタテへと変わるも、機能を一段向上させた逸品である。果たして、柿渋染め帆布地のアタックザックは、山わっしゃこのお誂え向きになるであろうか・・・

あさひと山わっしゃこが心に感じたもの















孫娘、あさひと三沢地区の「よねざわ昆虫館」へ行く。米沢盆地に住む虫たち100、000匹との出会で、あさひは自然の不思議を感じ、自然への関心の大切さを心に留めていた。











山わっしゃこは一画にnostalgiaを強く感じ、米沢ながら露程も知らなかった羽黒堂なる廃村を訪ねてみた。朽ち果てた母屋にて目を閉じれば画が重なる。

飯豊連峰 大日杉周回コース













6月18日(金)
ザンゲ坂の花崗岩に、昔人の足跡を見れば、ブナの尾根に乗る。ハルゼミの忙しい鳴き声のなか長之助清水で喉を潤せば、山の悦に入る。息衝き、ブナ林を抜け出せば滝切合で、鍋越山へ通ずる道は笹藪に埋もれ、倒れた道標だけが往時を物語る。地蔵岳から御坪までの道辺には、シラネアオイは広く咲き誇り、つぼみをつけたヒメサユリは密やかにその時を待っていた。御沢を登るべくピッケルを背負って来るも、出発と足が遅く、飯豊山へ続く道を右に捨てた。種蒔山水場より直上すれば、先行者の石突き跡に安堵し、山際にへばりつく残雪と夏道を繋げば三国小屋で、後方に目を転ずれば、大日岳から飯豊本山への稜線は頭上高くなりゆき、再訪を約束させる。剣ヶ峰で高度を落とせば地蔵の水場で、僅かな距離の雪渓を左に登れば、ミズバショウに囲まれたお地蔵さんが腰を下ろせと促す。数本の煙草をくゆらし留まるも、山わっしゃこが欲する日差しが迫れば気が急き、熊用心に山刃を下げ、それに備える。遅い雪解の道は、所狭しとカタクリの花が咲き乱れ、牛ヶ岩山先まで足の運びに苦労した。五段山の登りで、案の定、熊臭さを感ずれば、葡萄沢側尾根に中津川鉄砲撃衆が言う熊道があれば頷ける。道標を左に下れば、一段低いコブ山までは200m余りの急降で、沢音が耳に届けば大日杉小屋が間近いことを伝える。通り板の無い吊り橋を渡るのも億劫で、白川の流れに足を濡らせば、山巡りの起点に戻った。

飯豊連峰 石転び沢から梶川尾根








十文字鞍部に休むパーティ



6月12日(土)
石転び沢を登る組では一番早い出発にもかかわらず、足は遅遅として進まず、次々と追い抜かれ十文字鞍部に着けば先行者の大半は下山と立って行った。本石転び沢上部で、偶然に出会った長井の奥山さんも、梶川尾根を下るとのことで一足先に小屋を後にした。弁当使いも終わり腰を上げる頃、一群の登山者が到着し始め、それを歓迎するかのように、飯豊の山々は晴れ渡りはじめていた。連峰最北の二千米峰北股岳は一投足と言うには長過ぎる距離であるが、突兀としたピークに立てば四周全山を見せる。、これより門内岳、扇ノ地神を経て梶川峰までは縦走路の起状は緩く、景観と花たちが、たびたび足を止めさせる。以後、落下する尾根は登りに増し、腰から足に鈍痛を走らせ、ほうほうのていで湯の沢に下り立てば、山巡りは終了した。

飯豊連峰 栂峰












6月7日(月)
今日は山菜が目的の山行であるが、天照大神に手を合わせるのは通例で、ともかく栂峰を目指す。ようやく雪解けが終わり日の差す道端には、可憐な花が咲き始めていた。高度が上がれば展望はおもむろに開け、飯豊山群がわだかまっていた。展望皆無に近いオオシラビソの森は、おおかた残雪に覆われていたが、切れ切れに消えた登山道に、けなげなミズバショウが自生していた。植生が一時ブナに変わる斜面を登りきると及び平頂は一面の残雪で、過去の記憶にない光景である。頃合いのコシアブラから始まり、沢に下れば、売るほどあるゼンマイは御法度物で山ウド掘りに専念する。思いがけないタケノコは家族が十分堪能する量で、裾野に下れば当分の間、お浸し、みそ汁にと食されるワラビを手中にする。まさに春爛漫の一日であった。

朝日連峰 祝瓶山















5月29日(土)
一ヵ月前、三体連山から見下ろした祝瓶山へ通ずる道は雪に覆われていたが、いまはすっかり雪消の道となっていた。野川を渡り、新縁を掻い潜る様に行けば、塩地谷地平で水バショウの群生を、桑住平にて十貫目のゼンマイを背負う山人に出会えば、春山の風物詩に触れる。三っの沢を跨ぎ、いつもの通り水筒を満たせば、山頂までは喘登一辺倒である。潅木帯が切れ案の定、岩場は雪に覆われ石突きも寄せぬ硬雪で足場を刻んでの登高だった。半年ぶりの山頂はガス一色の世界で、アカハナ尾根側を上がって来たパーティに声を掛け山を下れば、米沢で言う「かてもの」でザックが重くなったのは言うまでもなく、青い山を後にした。

朝日連峰 三体連山


4月25日(日)何時にない不穏な春の三体連山であるが、春を待ちきれないクマは沢から沢に餌を求め尾根を横切る足跡が、やたら目に付いた。広い枝尾根から横着を決め込み、白布ノ頭山頂を嫌い途中から冷や汗もののトラバースを経て、概ね高度200mを落とす。緩登、緩降で複数回テントを張った鞍部の泊まり場を通過、今日の予定は柴倉山頂であったが、途中で重荷に悲鳴を上げた身体は幕営を促し、樹林の適地にテン場を切る。ザックの目方を減らすべく牛飲馬食に徹する。

4月26日(月)
夜半から雨がテントを打ち、風が吹き荒れるも朝には収まり、グングンと青空が広がる。アルファ米を腹に入れ、ひと山越せば柴倉山の登り口に着いた。大朝日岳側から望む柴倉山は端正な山容であるが、反対側から見れば、後に尾根を伸ばし、それとは言い難い。前面する祝瓶山は雪に埋もれ、処々に岩峰が露出して、凄まじい様相を呈している。金目川溯行の折、シバに助けられたが、残雪期に何時かはと念止みがたくあったが,雪崩などで取り付くのも困難なようで疑問が残る。今日は爺岳と婆岳の鞍部でテントを張る予定とし、先の雪稜を進む。山頂より下ればマユツバ話のドジョウが棲むと言う池は雪の下にあり、空同然のザックは快適で、1057mまで足を延ばしてくれた。まだ辿らぬこの先に思いを寄せつつ、頭の上に被さってくる祝瓶山に踵を返す。二つ三つの登りに喘ぎ、合地ノ峰に繋げば朝日と飯豊の間で真直ぐ伸びる稜線漫歩が待っていた。爺岳の下りをこなし、折れ枝をくべれば、今日の夜も、また、酒で終わった。

4月27日(火)
深酒がたたり主食を取る気にもなれず、有りっ丈の飲み物を喉に通す。荷をザックに押し込めば濡れ物で初日と変わらぬ重さであるが、満足がそれを感じさせない。雪の割れ目に咲き競うイワカガミと、みやげとした頃合いのフキノトウが、ようやく遅い春が来たことを物語っていた。

『坊がつる賛歌』


雪 涙 残 人
解  を 雪 み
の 流 恋 な
水 す  し 花
 に          に      
     山 山
春 男  に 酔
を       入  う
知       り  と
 る           き
               も

朝日連峰 安部ヶ館山







安部ヶ館山方面から望む葉山連山




4月4日(日)
上天気を約束する朝の雪は、樏を不要の物にさせ、ツボ足はメートルを上げる。途中、通行ルートに人為的に掘られた穴を見る。「立つ鳥 跡を濁さず」なる格言も知らず、偸安をむさぼる連中の仕業であろう。オケサ堀から来る登山道と合わされば、谷を隔てて安部ヶ館山へと続く尾根が心を浮かせる。鍋割山左肩より目に飛び込む景観は余りあるもので、一人歩きの身には贅沢すぎた。その昔、安部一族が朝廷軍から追われ、要害の地とした山頂に辿り着けば山の先達、秀さんと共に石に枕し、スケッチブックを灰にした事々が偲ばれる。葉山山荘に立ち寄り白兎に下り立てば、秀さんが愛してやまない葉山連山の追悼登山は終わった。















先日の山行で、樏の足を載せる麻縄はズタズタに裂かれ、張り替えを余儀なくされた。思い返せば長い付き合いで、当初は、同じ麻縄で結ぶのが流儀であった。濡れると締まって緩むことはないが、ただし結び端が雪ダンゴになるのが欠点で、こだわりを捨てバンドに替えた。慣らしに長井葉山でも・・・・

吾妻連峰 兜山












3月20日(土)
いずれは、登らねばなるまいと思っていた吾妻の一画、兜山は、綱木口から登山道が続く事は周知の通りであるが、地図上の地形、高度を表す曲線をなぞれば、大白布側からも辿れる事を教える。無名尾根に取り付き高度を上げれば、朝日、飯豊と遜色ない立派なブナ林が続いていた。直下の登りに掛かる手前より垣間見る兜山は、まさしく兜の鉢の如くに見える。発達の小さい雪庇を切り、山頂に立てば四周の山々は薄く浮かび上がり、愉しみにしていた米沢の町並みは棚引き指呼しょうもない。朝晩、仰ぎ見る吾妻の山に「ふるさとの山に向ひて 言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」なる一首が頭を過ぎる。

飯豊連峰 栂峰











3月15日(月)
雪虫が這いまわる頃は、雪は締まり、樏は不要の物と化するのだが、新雪に樏を締める。山は冬の眠りの醒めやらぬ姿であったが、尾根の一端に登り着けば、除々に日が差し、心は躍る。烏帽子山からの霞み渡る展望を横目に栂峰と面すれば、小さな不安と楽しい期待が交錯する。喘登はザックに落し差ししたピッケルも使わず、田沢地区から来る棒尾根と合わさる1485mに出た。栂峰に目を転ずれば、もっそりとした黒いオオシラビソの群落は、蔵王権現方面に発達させている。また、南方向の岩羽国境尾根沿には、見事なブナ林が彼方へと続くのである。風は吹き荒び、ある物全部を着込む。平頂の一番高い所で弁当を開げれば、一人歩きの心細さと寂しさが頭をもたげてくる。今し方稼いだ山を眺めながら夏道の着く尾根を下れば、村外れの外灯に安堵する。

朝日連峰 長井葉山











2月28日(日)
Nさんの提案で、久しぶりに本来の登山口である白兎十文路より葉山へ入る。森林公園より左側の白兎尾根を捨て、大沢尾根650m地点から延びる枝尾根にバリエーション・ルートを求めた。登り出しは牛の背の如し広い尾根歩きで、大沢源頭に差し掛かれば、馬の背に推移する。最後の急斜面はピッケルが欲しくなるも、カモシカの足跡がスタンス・ホールドと化し助けられた。主稜線から先行者のトレイルを追い山荘に着けば、1組のパーティーは奥の院へ足を向かわせ、山荘内には夫婦らしきパーティーが暖を取っていた。心地好い疲れにビールは口を軽し、薪を補う。帰り道とした勧進代尾根を下れば、青空に映えるマンサクに、山が笑っているようだ。

飯豊連峰 五段山












2月22日(月)
当てにしていたスノーモービルの跡もなく、岩倉から岳谷まで2時間のアルバイトを強いられた。葡萄沢沿いに延びる無名尾根は疎林であるがゆえ展望は申し分なく、遠い朝日嶽と近い飯豊山が胸を打つ。それにしても、これ程、ブナの無い尾根は飯豊で知らない。鉈目も切付けも皆無で、まったく人臭さを感じない尾根である。さらに膝下一尺程のラッセルで1050mに上がれば、白川大川鳥屋沢と葡萄沢上鳥屋沢へすりへらす尾根上に出現したキノコ雪にびびる。五段山は指呼の間であるが、ザイル無しで行くのも大人気なく、時間にこじつけ樏を返し長い林道歩きを経れば、人家に灯りが燈っていた。

辿りたい雪尾根










山行予定 2010年1月~5月
朝日連峰:芝倉山(葛城山経由) 長井葉山(大沢尾根) 安部ヶ館山(勧進代尾根) 祝瓶山荘(中沢峰経由) 祝瓶山(柴倉山経由)孫守山(合致ノ峰経由) 足駄山(小枕山経由)  飯豊連峰:栂峰(烏帽子山経由)(小仙経由) 藤内鳥屋山(飯森山経由) 藤内鳥屋山(大頭森山経由) 五段山(1101m経由) 鍋越山(大沢境尾根) ガキ山(夜蚊鳥屋山経由) 頼母木山(西俣ノ峰経由) 鏡山(七森峰経由) 米沢の山:栗子山(抗甲山経由) 
※計画したものの何ルートを実践出来るか・・
                

飯豊連峰 高倉山











2月14日(日)
岩羽国境尾根上1515.2mの小仙より派生する支尾根は、高倉山手前鞍部で400mもの高度を落とし米沢側へと延びている。地形図に破線はなく雪が登らせる山域であるが、昔は仕事道があったと地元の古老より聞き及ぶも、今は通行者もなく、ひっそりとブナを残すのみである。雪しずりを受け、ブナの林間をすり抜けて行けば見晴らしのよい水平道で、目に入る全ての展望を堪能するも、山頂はおよびブナに覆われた平頂であった。

飯豊連峰 烏帽子山








米沢市田沢地区から望む栂峰



1月31日(日)
時々雨の予報は外れ、山々は白く輝いていた。ブナの木立の中を縫う様に登れば、頭上に群青が広がり、セピアの心が色ずく。ブナが切れ烏帽子山頂に辿り着けば、スカイラインは栂峰北肩に延び、雪屁越しに目を落とせば、栂峰を大荒沢山と敬う田沢地区が広がる。続く米沢の町並みは屏風如しの斜平山が隠し、目に留めることは出来ない。遠い朝日嶽は薄く山容を見せ、近い飯豊山はもっそりと雪を被り横たわっていた。傾倒し続ける岩羽国境尾根の一画へ冬季に入れた事を満足するも、のべつまくなしに吹く風は帰館を促し、及びブナの中に戻された。

朝日連峰 白太郎山












1月18日(月)
白太郎山は何人の足跡をも着けず、まっさらな雪上にはNさんのトレイルのみが、モノクロの世界を彷徨するが如く延びて行く。雪にひしゃげるブナの枝梢が、美しくも、悲しくもあり自然の非情を感じる。後を追う者は幾度も立ち休みを繰り返しタバコをくゆらすも、渋る樏を前に出せばブナを抜く山頂で、そこに、ビール片手にNさんが待っててくれた。展望皆無の山頂ではあるが「近くてよき山」と共感せり。下りは早く、またたく間に稜線は後方へ、そして高くなりゆき、麓へ下れば満ちたりた山となるも、徹頭徹尾、ラッセル泥棒の雪山であった。

飯豊連峰 山毛欅潰山








中津川郷



1月11日(月)
鉄砲ぶちのトレイルを追うも、数十メートルでラッセル泥棒は終わった。
水になる元は、牛の飲むほどあるが不味く、小沢を掘り起こし真水を汲む。カモシカの往来する尾根に乗れば、無表情で黙々とラッセルするその姿に宿命を感じ、好んで雪山に遊ぶ者は罪悪感を持つ。小尾根を登りきれば、まっさらな雪の斜面が山頂まで続き静寂に包まれる。飯豊と小国を分ける町境尾根を下れば、その昔、嫁も婿も晴着で通った中津川峠に降り立つも、帰り道は長かった。それを労ってくれたのは「どぶろく」であったことは言うまでもない。