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栂峰

小屋~栂峰~1485m~小栂峰~1441m~小栂峰~小屋(10時間)



5月11日
締の残雪の山は栂峰へ行く。麓は山菜採りで賑わい、天照大神に手を合わせれ
ば、静かな山となる。
ルート取りにミソをつけ、沢筋を登る羽目となり1102mの夏道に出た。
クロベの大木から雪の上の歩きで、朝日飯豊一辺倒の山わっしゃこの頬を
緩ませるに不足ない稜線漫歩は栂峰山頂まで続いた。
帰路は、大荒沢左岸尾根尖端1485mと岩羽国境尾根1441m鞍部の道草
をして、朝の賑わいがウソのような麓へと戻った。




栂峰山頂


1485mから大荒沢左岸尾根


1441m鞍部にて
















無名峰 1485m

4月9日
大荒沢~無名峰1485m~大荒沢(10時間30分)

登り残した無名峰へ続く白い尾根に乗れば、雪量は落ち、足早の春に驚く。傍らの
イワウチワがそれを物語る。
硬雪は、終始カンジキを入要とせず、知らず知らずにメートルが上がる。東面限界の
太古のブナ林を抜ければ、水平道先のスノーリッジは、雪を落としはじめ、なかなか
厄介なルートを作り出し、少しばかりの努力と度胸が必要である。
信用のおけぬスノーエッジ、ヒドン・クレバスを通過し、最後の雪面はアイゼン無しの
ピッケル頼みの登高で、複数回目のまっ皿なピークを得た。
栂峰の山頂は一投足であるが、近くて遠い山とした。恐怖観念からへっぴり腰での
下降で、パートナーがいれば笑われそうだ。起点に戻れば、細やかではあるが、
久々に、山に興奮した自分がいた。

















1485mピーク北西側(2009年3月21日)

 

栂峰(中退)

3月24日
大荒沢~無名峰1485m直下1330m~大荒沢(10時間)

数年前、手に入れたLOWAの試し履きのつもりが、ブナと青空に誘われ、範疇を超え、
本気で栂峰を目指した。
正面に仰ぎ見る大荒沢山こと栂峰東面は、肩を急角度にすべらして、田沢方面千仞
の渓谷を落としている。この先、難所であろう登路手前1330mで行動は終わった。
再度の実践を目論見、往路を戻れば、すれすれにランプ不要で田沢の里に辿り着け
た。











飯豊山「オニシマイリ」

9月21日
置賜地方では往古から十三歳から十五歳くらいまでに成人の儀式として「お西山」と
呼ばれた飯豊山に登る「オニシマイリ」習俗が大正時代まで続いていた。
その登拝路の起点となる大日杉は登山者でごった返し、そんな中、開わっしゃこは
25年前、親父もそうであったように足元をキャラバンシューズで固め、はじめての飯
豊の山へ入る。要所々を超える開わっしゃこの体力には驚愕する。裏腹に山わっしゃ
こは困憊に陥り、テン場を飯豊本山から切合小屋に下げざるを得なかった。

9月22日
ザックは、開わっしゃこが背負ってくれた。足早で飯豊本山にお参りすれば「オニシマ
イリ」の一つが達せられ、後は登山者となる。ガス湧く飯豊山の山頂に立つ開わっしゃ
こは、なにを思い、なにを感じているのか、成長した少年を見る。下山は「オニシマイリ」
を演出するかのように、法螺貝が飯豊の山々に響き渡る中を還った。




















飯豊連峰 門内小屋









門内小屋を望む


8月5日
丸森尾根に取り付けば早々に神経痛は出るは、丸森峰手前から脚はつるはで地神北峰に辿り着く。思案すれば欲にも歩くことができない朳差は諦めた。新潟の岳人から山の先輩、亀山さんが門内小屋に入っていると耳にする。地神山の登りにかかればイイデリンドウは見ごろで別れ行く朳差を背にすれば得も言われぬ大パノラマが広がっている。縦走路の起状は緩く稜線漫歩で小屋に着けば亀山さんの善意がノドをうるおす。数年ぶりの話は尽きぬが小1時間で小屋を後にした。昨日、口を開けたばかりの水場で水筒を満たし扇ノ地紙で弁当を広げ時間も忘れた。所々で腰を落とし山荘の屋根が見えればアブがまとわりつく天狗平に13時間後に降り立った。


飯豊連峰 飯豊山












7月6日(水)
雨はどこへいったような晴天が約束され、ついと、山に向かう。鼻をこする懺悔坂で一集団を抜き、長之助清水が咽をとおれば汲めども尽きぬ魅力の飯豊に触れる。適当な登りをこなし、白川左側に延びる岩羽国境尾根上にもっそりとわだかまる牛ガ岩山と視線が相等しくなれば騙し地蔵の東肩で、ここよりひと登り我慢すれば地蔵岳で朝飯とした。行きも帰りも山頂は踏まず、花街道故に遠慮がちに刈られた道を辿れば目洗清水の先で先日、祝瓶山を共にした若者達との出会いあり、暫しの会話で先を急ぐ。御沢には下りず種蒔山北面の雪渓を横断し切合小屋に至れば登山者がごった返していた。砂礫地から草履塚への長い雪渓歩きは地下足袋には堪えた。双耳峰の片方、北峰から急降すれば御秘所の険で、御前坂下で長い登りに腹拵えで備える。小ぶりながらヒナウスユキソウに励まされ飯豊山に到達せり。晴渡る空に展望は利き、あくことなく山々を眺めた。切合小屋にて両足の爪に痛みを覚え下山路は五段山経由を諦めざる得なく長丁場、地下足袋を履く者の宿命であろう。それでも、大日杉小屋には、帳が落ちる寸前に辿り着いた。

飯豊連峰 栂峰

善意に収まる











6月7日
完全に錆び付いた体に、履き下ろしの長靴は足が遊び過ぎて歩きにくいことこの上なくホキる。先行した2人パーテーは唯一の窓で昼食をとっていた。そこからの目に入る山群は棚引き、指呼の間の飯森山だけがスッキリとそこにあった。小1時間も休めば老頭児と言えども回復傾向にあり、山菜に高ぶる。1500m下のコシアブラに始まり1000m辺りのタケノコ、沢へ下ればウドが食べ頃ですと待っていた。麓でのワラビは大漁で、明日からは山菜三昧の日々となる。

飯豊連峰 栂峰(中退)



2月23日(水)
久しぶりに雪の風物の中に入るが、樏は遅遅と進まず、烏帽子山から延びるスノウラインは越えたものの栂峰山頂への意地は捨てざるを得なかった。


飯豊連峰 飯豊山





















10月23日(土)
石にさせられた姥も通ったであろう中津川参拝道はザンゲ坂で洗礼を受け、長之助清水に山の水の甘さを知る。ダマシと名の付く山はたいがい頂は踏まず肩辺りを搦むもので朝日のダマシ御影然りこのダマシ地蔵も其の通りである。あわただしく通り過ぎた登山者の行く先の尾根を追えば地下足袋を責付く。右手に本山を仰ぎ見て高度を上げれば主稜線と繋がり、僅か行けば登山者が疎らの切合小屋であった。関門の草履塚はこのコース最大の突起で恨めしいが、これより視界は広がり本山と対峙する大日岳が牛首山を従い櫛ガ峰を経て水晶尾根にスカイラインを延ばしている。白い花崗岩礫地の御前坂に今年見逃したイイデリンドウとヒナウスユキソウに思いを馳せれば、本山小屋に辿り着いた。四周総ての展望が利く稜線を闊歩すれば飯豊本山で、今年最後となろう山頂からの展望を楽しむ。降りは多くの登山者と行き交い、切合から主稜線を離れれば、ツルベ落ちに陽が落ちて暮れた。

飯豊連峰 大日岳




10月2日(土)
裏川メッケ穴沢を遡行し大日岳に登頂後、オンベ松尾根を経て湯ノ島小屋に降ったのは昭和59年であった。湯ノ島小屋はブナ林の中にひっそりと佇んであったのは変わりはないが、往時を回顧すれば、随分と様変わりし、登山道に上がるまで、しばし間誤付く。昔、足を濡らしたアシ沢は簡易パイプの橋を渡る。前川を挟む鏡山山稜が後方へと移れば月心清水で、旅立ち姿のお地蔵さんは当時のままであった。ブナは切れ一気に視界が広がるも、今しがたやらかしたとおもわれる熊の糞を見れば、景色を楽しむ気も失せる。一服平を越し櫛ガ峰を搦めば、牛首山までの西面は紅葉の真っ只中で、主峰飯豊本山を取り巻くたおやかな山並みも徐々に色付き始めていた。牛ガ首鞍部より高度差240m余りをノラリクラリと詰め上がれば、人の子一人いない大日岳山頂で、文字の無い木標に遠い過去を追う。もう歩くことはない薬師岳からのヤブ尾根が曇一点もなく望まれ、彼方にうねる稜線が果てなく続いていた。御西から来た登山者と入れ替わり、飯豊山で一番高い山を後にした。着飾った尾根を離れ、青い尾根の末端で灯りを点け登山道へ出る。湯ノ島小屋に泊まるかぐらつくが、酒のない夜は哀しいので歩き出す。ゲートに戻ったのは15時間後で「一日八里(ひしてはぢり)」の山旅は終わった。

飯豊連峰 疣岩山

                    
                    
                    







9月26日(日)
疎遠であった長坂登山道の記憶はおぼろげであるが、弥平四郎集落のたたずまいに、昔日の懐かしさを思い出す。四ッ沢から登り上がれば、マナツボ鞍部から熊狩りで実川側へ越した証を見る。道すがら大量のブナハリタケをザックに収め、大日岳の展望台と渾名される鏡山に辿り着けば一瞬、飯豊本山から大日岳の主稜線を見る。これより進む登山道は起伏に富むも足運びはよく、八ッ小屋尾根と合わさる上ノ越を通過させ、どこがピークか分からぬ巻岩山を搦んで行けば松平峠に接続する疣岩分岐で、僅か北側の巻き道を辿れば三角点が在るのみの疣岩山は一投足である。山頂より三国小屋を望むが今日は遠く、引き返す事とした。往路は、八ッ小屋尾根とし登ってきた道を上ノ越まで戻る。途中の登山道上でカモシカの交尾を目撃、一目散に消えた藪から唸り声が聞こえていた。ブナに平成四年八月、某他六名、新長坂登山道伐開と切り付けのある登山道を下れば祓川駐車場に着いたが、弥平四郎を経て四ッ沢までの林道歩きは長かった。

飯豊連峰 飯豊山












8月28日(土)
二ヶ月余り、山を離れた鉛の体は遅遅と進まず、五段山にて今回の計画は止むを得なく絶した。柔和な地蔵さまがおわす、地蔵山までの岩羽国境尾根は七寸幅に伐られるも、登山者にも行き会わぬ不遇の道に映る。三国岳の水場は細いとの風聞あり、川入登山道側に入り、飯豊の名水と名高い峰秀水5リットルを歩荷するも、直下にて3リットルの水を地べたに飲ませるヘマを打つ。空いていた三国小屋も夕暮れ時、団体組で小屋はスシ詰め状態と化し、通りすがり、袖振り合った流暢な日本語を話すオーストラリアの青年との酒飲みは分断され、何時しかシュラフ代わりとしたツェルトに沈没する。

8月29日(日)
朝食を済ませた彼は大きなザックを背負って、再び会おうと約束の本山へと一足先に向かった。管理人の大関さんに言葉を掛け後を追う。老骨にムチ打てば、彼は飯豊山頂で待っててくれた。知る限りのアドバイスをし、硬い握手は別れであった。下山路に中津川コースを取れば、そこにも新潟の山屋2人との出会いがあり、共々、灯りを必要とする寸前に大日杉に下り立った。

飯豊連峰 大日杉周回コース













6月18日(金)
ザンゲ坂の花崗岩に、昔人の足跡を見れば、ブナの尾根に乗る。ハルゼミの忙しい鳴き声のなか長之助清水で喉を潤せば、山の悦に入る。息衝き、ブナ林を抜け出せば滝切合で、鍋越山へ通ずる道は笹藪に埋もれ、倒れた道標だけが往時を物語る。地蔵岳から御坪までの道辺には、シラネアオイは広く咲き誇り、つぼみをつけたヒメサユリは密やかにその時を待っていた。御沢を登るべくピッケルを背負って来るも、出発と足が遅く、飯豊山へ続く道を右に捨てた。種蒔山水場より直上すれば、先行者の石突き跡に安堵し、山際にへばりつく残雪と夏道を繋げば三国小屋で、後方に目を転ずれば、大日岳から飯豊本山への稜線は頭上高くなりゆき、再訪を約束させる。剣ヶ峰で高度を落とせば地蔵の水場で、僅かな距離の雪渓を左に登れば、ミズバショウに囲まれたお地蔵さんが腰を下ろせと促す。数本の煙草をくゆらし留まるも、山わっしゃこが欲する日差しが迫れば気が急き、熊用心に山刃を下げ、それに備える。遅い雪解の道は、所狭しとカタクリの花が咲き乱れ、牛ヶ岩山先まで足の運びに苦労した。五段山の登りで、案の定、熊臭さを感ずれば、葡萄沢側尾根に中津川鉄砲撃衆が言う熊道があれば頷ける。道標を左に下れば、一段低いコブ山までは200m余りの急降で、沢音が耳に届けば大日杉小屋が間近いことを伝える。通り板の無い吊り橋を渡るのも億劫で、白川の流れに足を濡らせば、山巡りの起点に戻った。

飯豊連峰 石転び沢から梶川尾根








十文字鞍部に休むパーティ



6月12日(土)
石転び沢を登る組では一番早い出発にもかかわらず、足は遅遅として進まず、次々と追い抜かれ十文字鞍部に着けば先行者の大半は下山と立って行った。本石転び沢上部で、偶然に出会った長井の奥山さんも、梶川尾根を下るとのことで一足先に小屋を後にした。弁当使いも終わり腰を上げる頃、一群の登山者が到着し始め、それを歓迎するかのように、飯豊の山々は晴れ渡りはじめていた。連峰最北の二千米峰北股岳は一投足と言うには長過ぎる距離であるが、突兀としたピークに立てば四周全山を見せる。、これより門内岳、扇ノ地神を経て梶川峰までは縦走路の起状は緩く、景観と花たちが、たびたび足を止めさせる。以後、落下する尾根は登りに増し、腰から足に鈍痛を走らせ、ほうほうのていで湯の沢に下り立てば、山巡りは終了した。

飯豊連峰 栂峰












6月7日(月)
今日は山菜が目的の山行であるが、天照大神に手を合わせるのは通例で、ともかく栂峰を目指す。ようやく雪解けが終わり日の差す道端には、可憐な花が咲き始めていた。高度が上がれば展望はおもむろに開け、飯豊山群がわだかまっていた。展望皆無に近いオオシラビソの森は、おおかた残雪に覆われていたが、切れ切れに消えた登山道に、けなげなミズバショウが自生していた。植生が一時ブナに変わる斜面を登りきると及び平頂は一面の残雪で、過去の記憶にない光景である。頃合いのコシアブラから始まり、沢に下れば、売るほどあるゼンマイは御法度物で山ウド掘りに専念する。思いがけないタケノコは家族が十分堪能する量で、裾野に下れば当分の間、お浸し、みそ汁にと食されるワラビを手中にする。まさに春爛漫の一日であった。

飯豊連峰 栂峰











3月15日(月)
雪虫が這いまわる頃は、雪は締まり、樏は不要の物と化するのだが、新雪に樏を締める。山は冬の眠りの醒めやらぬ姿であったが、尾根の一端に登り着けば、除々に日が差し、心は躍る。烏帽子山からの霞み渡る展望を横目に栂峰と面すれば、小さな不安と楽しい期待が交錯する。喘登はザックに落し差ししたピッケルも使わず、田沢地区から来る棒尾根と合わさる1485mに出た。栂峰に目を転ずれば、もっそりとした黒いオオシラビソの群落は、蔵王権現方面に発達させている。また、南方向の岩羽国境尾根沿には、見事なブナ林が彼方へと続くのである。風は吹き荒び、ある物全部を着込む。平頂の一番高い所で弁当を開げれば、一人歩きの心細さと寂しさが頭をもたげてくる。今し方稼いだ山を眺めながら夏道の着く尾根を下れば、村外れの外灯に安堵する。

飯豊連峰 五段山












2月22日(月)
当てにしていたスノーモービルの跡もなく、岩倉から岳谷まで2時間のアルバイトを強いられた。葡萄沢沿いに延びる無名尾根は疎林であるがゆえ展望は申し分なく、遠い朝日嶽と近い飯豊山が胸を打つ。それにしても、これ程、ブナの無い尾根は飯豊で知らない。鉈目も切付けも皆無で、まったく人臭さを感じない尾根である。さらに膝下一尺程のラッセルで1050mに上がれば、白川大川鳥屋沢と葡萄沢上鳥屋沢へすりへらす尾根上に出現したキノコ雪にびびる。五段山は指呼の間であるが、ザイル無しで行くのも大人気なく、時間にこじつけ樏を返し長い林道歩きを経れば、人家に灯りが燈っていた。

飯豊連峰 高倉山











2月14日(日)
岩羽国境尾根上1515.2mの小仙より派生する支尾根は、高倉山手前鞍部で400mもの高度を落とし米沢側へと延びている。地形図に破線はなく雪が登らせる山域であるが、昔は仕事道があったと地元の古老より聞き及ぶも、今は通行者もなく、ひっそりとブナを残すのみである。雪しずりを受け、ブナの林間をすり抜けて行けば見晴らしのよい水平道で、目に入る全ての展望を堪能するも、山頂はおよびブナに覆われた平頂であった。