「山ある記」
山の先達、秀さんは、祝瓶山周辺のそう高くもない山々を跋渉し、少年のままの心で風景を捉え、文を語ったのがスケッチ画文集「山ある記」である。
この画文集に往年の秀さんを彷彿としてしのぶことができるのである。
朝日連峰 長井葉山
12月28日(月)
登り口から合羽を強いられる。高度を上げるごとに雨足は激しく、風も強くなる。どうしても山頂へ行きたい訳はあったが勧進代尾根で尻尾を巻く。今年最後の山は、かくの如くいかにも「山わっしゃこ」らしい締め括りである。
登り口から合羽を強いられる。高度を上げるごとに雨足は激しく、風も強くなる。どうしても山頂へ行きたい訳はあったが勧進代尾根で尻尾を巻く。今年最後の山は、かくの如くいかにも「山わっしゃこ」らしい締め括りである。
飯豊連峰 山毛欅潰山
12月25日(金)
どぶろくと山を求めて飯豊山麓へ行く。アポなしのどぶろくはスカであったが、しばらく歩かぬ鈍った樏足はピーカンに気をよくし、山毛欅潰山頂を踏ませてくれた。朽ち果てるブナが目立つ疎林の山頂を避け、飯豊山の展望台へ戻れば、前衛栂峰から走る岩羽国境尾根の寂峰と、不遇の西滝登山道を再度歩くことを目標に掲げた。
朝日連峰 祝瓶山
朝日連峰 長井葉山
朝日軍道
朝日連峰 大玉山
11月7日(土)
山から白い便りが届けば、祝瓶山荘閉まいの時期である。長井山岳会が維持管理する角楢吊橋の渡板外しと山荘の雪囲いの重労働が終わるころ山荘に着いた。かまどに掛けた羽釜の中で、おでんもどき物が煮え返り傍らでサンマが煙を上げて、すっかり慰労会の準備が整い恐縮する。カメムシ退治と掃除を早急に終わせば乾杯が発せられた。酒と肴はふんだんとありヌーヴォーのワインと初仕込みのドブロクで沈没する。
11月8日(日)
善意の人達は、しのこした仕事を一手に引き受けて、道楽で山に入る我々を送り出してくれた。道すがら梢ごしの祝瓶山は大きく登高意欲をそそるも十年、二十年と生きのびられたら、大先輩川崎さんの様なスタイルになりたいと切に願うもので、大玉山に向かう一員になることを請た。赤鼻尾根分岐より蛇引尾根分岐間までの道は登山者と行き会うこともなく静寂の中の歩きである。おおむね中間に位置する大玉山の売りはここにある。山頂ではaが望みのコーヒーを挽いてくれた。それを啜り、山波を見霽かせば個々は回想に耽った。帰りしな、四季を通してここを幾度も通過した川崎さんは三角点の頭をやさしく叩く。感謝の念であろうか。
飯豊連峰 大日杉周回コース
9月27日(日)
先週も地蔵岳コースを取り、飯豊山を往復した「葉山の自然を守る会」のNさんを連れ立ち、久々に山へ入る。白川を渡れば息衝き、昔の切付けを見れば谷地平分レから来る道と接続する五段山に着いた。平頂の五段山より緩降、緩登をくりかし地蔵山の路傍に佇めば、いとおしい地蔵が待っていた。三国岳から種蒔山を経て切合小屋まで鮮やかな紅葉に見惚れ辿り着くも、飯豊山は今日は遠く足袋を下山路に向けた。御沢分岐にて田畑を耕すを生業とし、水の有難みを誰より知るNさんの要望で黒井堰に下れば、越後に流れる玉川の水を羽前の置賜白川に流す偉業に敬服する。御坪はダケカンバの白い木肌が紅葉に映え、抜きんでる風景であった。連峰中、最も飯豊山を大きく見せる地蔵岳からの展望は得られずとも、秋色にどっぷりと浸ったを良しとし高度を下げた。
朝日連峰 祝瓶山
朝日連峰 祝瓶山
朝日連峰 平岩山
飯豊連峰 飯豊山
8月16日(日)
大又沢と桧山沢落合から派生するダイグラ尾根は、飯豊連峰屈指の長大な尾根である。桧山沢で汲みこんだ水筒を担ぎ、バカ尾根に乗れば飯豊山まで徹頭徹尾、気力と忍耐の取り組みで済し崩す以外術は無い。道すがらに、昔の思い出を見る。山頂よりの展望に打たれ、御西へと足を向け、水場でビールを冷やせば一日の仕事は終わる。
8月17日(月)
大日岳には行かず、コーヒーと四方山話を選び横着を決め込む。これから向かう稜線の左右を分ける渓谷を覗き込めば、二度と溯ることはない淋しさを知る。カイラギ小屋は交差する登山者で賑わいをみせ、管理人の関さんと暫し話しこむ。梶川尾根を下る予定は暑さに負け、一昔以来のカイラギ沢に変更し、中ノ島草付きにて地下足袋を履く昔ながらの岳人二人と行き会い、互い足元を見つめほくそえむ。ザックの底に仕舞いこんだ「カナカンジキ」は使用することなく雪渓の切れ間に下り立つ。群青に晴れ渡る門内沢出合にて水遊びに戯れれば沢心がつくも、如何せん現状の境遇が許さず不本意ながらえせ沢ヤに成り下がった。左岸に付く登山道を、チンタラと道草しながら辿るも、アブが纏わりつく温身平に着いてしまった。
飯豊連峰 門内岳
7月26日(日)
立ち上がりから喘登にして一直線の棒登りは梶川峰まで続き、それよりは、ノッペリとした地紙尾根に乗れば弥蔵ノ泊り(扇ノ地紙)にあう。左右に走る主稜線はたおやかで進路は左に取る。胎内山は榒道を通過し山頂は返り道とした。門内水場へ行く道を左に見れば霧の中に赤い屋根の門内小屋があった。一投足の山頂へは胎内尾根二ッ峰に思いを馳せるaのみが行も霧に煙っていた。sが担ぎ上げてくれたビールと、飯豊初見参の奥さんに頂く漬物に里心がつく。新潟の岳人より小耳に挟んだバッチを銘々購入し往路を戻る。幾つかの緩登をこなし地神北峰へ着くも霧が去来し展望に見切りをつけモンド穴、ボーフリと熊狩り用語らしい地名が残る丸森尾根を下る。山名の如し丸い頭の森が眼下に待っている。丸森峰、夫婦清水で休止後、下れど下れど道のりが長いのは疲れのせいで、あと二投足の場で雨にさらされた4名は濡れ鼠で天狗平ロッジに逃げ込んだ。
朝日連峰 三体山登山、西山探訪
7月19日(日)
長井市平野地区の人々が敬愛してやまない三体山は、また、心の糧の山でもある。その感謝の意を表す三体山登山、西山新道探訪の行事も今年で10年の年数を重ねたが、当初から深く係わった方々の姿はチラホラであった。雨と風のなか労を惜しまず鎌を振る善意の登山は山頂まで続いた。
朝日連峰 祝瓶山登山道整備
幻のヌルミ沢大滝
7月18日(土)
捗る雨降るなか刈り上がるも思惑以上の雨に戸惑いを感じる。会長と山わっしゃこは草刈機を回し、高橋さん指導宜しく新会員2名は草創期以来の手法である鎌を振る。1100m辺りよりヌルミ沢岩壁を望めば一条の流れが幻の滝如く落ち霧に見え隠れさせていた。道刈りという修行の道のりをこなし山頂に到着するも帰り道の仕事が待つ故そそくさとヒドと化した登山道を下る。増水の沢を3本渡渉すれば安全圏に戻り、一仕事が済めばカーバイトに灯りが燈る。同宿の来客3人を招けばK2(8611m)日本初登頂者の重廣恒夫氏であった。貴重なお話をお聞きする事ができ生涯忘れられない一夜となろう。また、長井山岳会自慢のカーバイトの灯りとひっぱりうどんがえらく気に入ってもらえ親近感を覚える。翌朝、山わっしゃことsは三体山登山へと向かった。
朝日連峰 大朝日岳

ガンガラ沢(1985・9)
7月12日(日)
朝日と飯豊の取り付きは急登から始まるのは同じ話で、日暮沢コースもまた然りである。熊の逸話が多い清太岩山、熊糞山を越えれば竜門山の主稜線へと足は届く。風強くガスの登山道を行も視界がない分これまで何度となくおとずれた朝日が走馬灯の如く見え隠れしてくる。西朝日岳を下れば荒川中俣沢を溯った者と,この域に精通した者だけが知る清水を飲む。大朝日小屋に辿り着くも展望薄いピークは割愛し小朝日岳へ向かい下れば,金玉水方向に見られるマツタケ雪渓や蛤雪渓は未だ硬雪の一塊であった。大正8年8月、大島亮吉がY字雪渓を下り寒さに震えたと山岳紀行に紹介したガンガラ沢が右脚下に深い切れ込みを見せている。小朝日岳には搦み道があり大いに助かる。サンザノ峰(古寺山)を通過しハナヌキ峰で右へ行く古寺鉱泉への道を捨て,竜門の滝経由コースで今朝には犇めいていたが,今は人の子一人いない日暮沢小屋の建つ栃平に着いた。
飯豊連峰 飯豊山
7月5日(日)
山の初めは息衝く。長之助清水が喉を過ぎれば山に入れた安堵の胸をなでおろす。山の源流である大日杉小屋は記憶ある昭和40年代と大きく様変わりさせ、傍らの大日沢だけが昔と変わらず坦々と流れているだけである。ダマシ地蔵を巻き、滝切合に進めば東滝からくる不遇の登山道は藪畳である。ここよりヒメサユリ、ニッコウキスゲ等が咲き乱れ、苦しさも消えうせる。御沢の雪渓登りは地下足袋ゆえ足が凍て付くようで閉口した。切合小屋で一本立て、急き立てられる様に飯豊山へ向かう。道々で多くの登山者と行き交うも、前ハチマキでナタを下げ、地下足袋を履く山わっしゃこの出で立ちは場違いの感を否めない。山頂に立てばガスは展望を断ち続け、下山する方が記念写真を取って下さると善意に収まる。ここまで来れたご褒美のミカンの缶詰を一人楽しみ踵を返す。帰り道は三国岳経由とし切合小屋で数本のタバコをくゆらし、地下足袋のツメを嵌める。1年ぶりの三国小屋で管理人の大関さんと親しく話をさせて頂く。地蔵山では路傍のおじぞうさんに手を合わせ、平頂の牛ヶ岩山を経て、真新しく道刈りされた五段山を下れば暮れなずむ大日杉小屋に着いた。
朝日連峰 祝瓶山

祝瓶山に立つ
6月27日(土)
酒をたっぷりと飲んだ夜であった。突然の来客あるが、片割れの鼾にy嬢とkは寝不足気味であると後で知る。
6月28日(日)
何時しか眠りから覚めれば焚き火があった。祝瓶山は顔を覗かせ左肩に冷たいビールを約束する雪が着いていた。蒸せ返すような中を隊列を組み進み、休み場あるごとに腰を下ろし水筒にがぶりつく。樹林が切れ岩場に出れば一層暑さが増すが目をつけておいた雪渓に乗ればヒンャリとした空気が漂い離れがたしも、一投足で初登山のy嬢と、ここ著しく山慣れしてきたkの新人2名は長井山岳会の「心の山」祝瓶山へ登頂せり洗礼を受けた。ごった返す山頂に彼女を残し、男4人は岩場にロープ取り付けに下る。作業が終わればよく冷えたビールが待っていた。霞み渡る四方の山波を見はるかす新人2名は山に何を問うたのであろうか。
飯豊連峰 栂峰
6月14日(日)
前日、長井葉山へ登ったs、aと今回2度目の登山となる若いkをタケノコで釣り、同行する女性2名のサポートをお願いした。晴れマークは出ているもののパッとしない天気の中、参拝道に乗る。杉林を抜け、ブナとナラ、クロベの大木と目まぐるしく変化する植生を見れば、オオシラビソの群落する大荒沢山こと栂峰山頂へと導かれた。唯一の窓ある南方へ赴くもガスに閉ざされ視界無し。傍らに深山の貴婦人シラネアオイが咲き誇り展望に変わる。昼食を済ませ下山に取り掛かり天照大神に着く頃、ザックはタケノコ他諸々で重さを増していた。
朝日連峰 祝瓶山荘にて
新鋭1名を欠くが山荘に集う
5月30日(土)31日(日)
「三人寄れば山岳会」の時代は衰退し、会員の減少も拍車をかけ存続すら危ぶまれる山岳会もあると聞く。我が山岳会も同様な有り様に危惧するも、昨年来立て続けに新鋭4名が長井山岳会に名を連ねた。提唱すれば先ず故郷の山々に分け入りじっくり知り尽くし己の哲学の山を模索するが良いだろう。斯く言う山わっしゃこも未だ域半ばで滸がましいものの言い方をするが共に実践したいと願っている。
気の合つたそして気のおけない二、三の友と共に歩く山登りは真に何ものにも代へ難く愉しい。それこそどんな苦痛にも困難にも、また危難にも耐え抜くことが出来よう。そして共に得られた喜びもまた領ちあえるのである。そして結び合はされた友情は、その山と共に永く人の心に残るものであろう。
モーリスエルヅヴーク
朝日連峰 祝瓶山
祝瓶山直下にて
5月23日(土)
待ちに待った祝瓶山荘開きであったが、全ての作業が終わる寸前到着。会の方々に恐縮する。カーバーライトに灯が点けば酒宴が始まった。最中、来客あり。後、著名な写真家と知るが大いに盛り上がる。昔ながらの山岳会に浸り酒飲めば、何時しかカメ虫と添い寝となった。
5月24日(日)
天気は下り坂を承知で、同じ山域に流れようとする会仲間と祝瓶山へロープを張るべく登る。道すがらにはカタクリの花は咲き誇り今年は山雪であったことを教える。案の定、1200m辺りから硬雪は登路を塞ぐも三つの点は一つの線となり山頂に辿り着いた。八方山の祝瓶山は霧に煙り風強く、ブナ林へと気が急く。目を凝らし下れば、頃合いの山菜をザックに収めることが出来た。山荘にてのんびりとコーヒーを啜れど祝瓶山を仰ぎ見る事は出来ず家路についた。
朝日連峰 葉山民衆登山
朝日連峰 中沢峰
焼野平の朝日軍道
5月2日(土)
「石に枕したい」と遅立ちではあるが春の広がる白兎参道を行く。立ち休みを繰り返せば道は捗らない。尾根にて薪を拾い汲んだ清水を背負えば葉山山荘へ着た。炉傍で缶詰をつっつき酒を飲むころ、すっかり夜になっていた。
5月3日(日)
熾きの煙が鼻を刺し目がさめた。アルファ米を腹に詰め山荘を出る。数年ぶりの山荘以西の朝日軍道に分け入れば単独者のトレイルを追う。大朝日岳を抜けるのであろう。羨む。焼野平の巻道は雪も着けず真の朝日軍道を見る事ができる。まだたっぷりと雪ある斜面を3、4ッ越して行けば中沢峰の頂に出た。仮称ダマシミカゲへ高度を下げるもオオドミの鞍部よりはただただたどる以外ピークを踏むすべはない。往路を戻り、もう一つの目的である仮称ホコダテノカッチへと向かう。中沢峰から祝瓶山荘への下りより大朝日岳が小さくなるにつれ祝瓶山がかぶさってくる。時期早なら、この登山道を下り切れば朝日に3本とないオオヤマザクラが咲き誇っているはずである。思い巡らせば一人ほくそ笑む。中沢峰からテン場を探して下るも葉山山荘へ着いてしまった。その夜も例の話で、酒で終わった。
5月4日(月)
鶯の囀りで眼をさますも持病の痛みでシュラフより這い出せず治まりを待つ。今日は葉山に来る人もなく山荘内はラーメンをすする音だけである。一足ごとに雪は少なくなり、やがて人里に出た。
朝日連峰 三体山
尾根にて
飯豊連峰 鍋越山
朝日連峰 長井葉山
朝日連峰 葉山
芦峅樏
飯豊連峰 栂峰
3月21日(土)
前回、余儀なく中退した栂峰へ行く。頂には拘らず過程に面白味を感じる故である。時間の食う尾根末端からの取り付きは割愛し、740mに合わさる尾根に取り付き時間短縮を計る。1000mラインに満たない尾根は雪屁が痩せはじめ所々藪を出し古い鉈目を見る。烏帽子山直下、東より派生する尾根は米沢側へダイレクトに延び登路、下路に使えそうで着目する。まっさらな烏帽子山より雪面はアイスバーン化しアイゼンが欲しくなる。栂峰の登りに取り掛かれば広く見る冬木立は霧氷を付け、またピッケルの石突きも容易に受け付けない雪面に今朝まで激しい風雪であった事が窺い知れる。谷側は信用のおけない雪屁で、自ずと山側を行く。急斜面、緩斜面を繋ぎ1485mへ登り切ると、たおやかな尾根が栂峰へ続いていた。どこが頂か解らぬ平頂の栂峰には先客3名が居り暫し雑談。弁当を広げている間先客は滑り下りて行った。朝日嶽、飯豊山に別れを惜しみつつシュプールを追うが何故かあじきない下山となった。
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