飯豊連峰 門内岳











7月26日(日)
立ち上がりから喘登にして一直線の棒登りは梶川峰まで続き、それよりは、ノッペリとした地紙尾根に乗れば弥蔵ノ泊り(扇ノ地紙)にあう。左右に走る主稜線はたおやかで進路は左に取る。胎内山は榒道を通過し山頂は返り道とした。門内水場へ行く道を左に見れば霧の中に赤い屋根の門内小屋があった。一投足の山頂へは胎内尾根二ッ峰に思いを馳せるaのみが行も霧に煙っていた。sが担ぎ上げてくれたビールと、飯豊初見参の奥さんに頂く漬物に里心がつく。新潟の岳人より小耳に挟んだバッチを銘々購入し往路を戻る。幾つかの緩登をこなし地神北峰へ着くも霧が去来し展望に見切りをつけモンド穴、ボーフリと熊狩り用語らしい地名が残る丸森尾根を下る。山名の如し丸い頭の森が眼下に待っている。丸森峰、夫婦清水で休止後、下れど下れど道のりが長いのは疲れのせいで、あと二投足の場で雨にさらされた4名は濡れ鼠で天狗平ロッジに逃げ込んだ。

朝日連峰 三体山登山、西山探訪


7月19日(日)
長井市平野地区の人々が敬愛してやまない三体山は、また、心の糧の山でもある。その感謝の意を表す三体山登山、西山新道探訪の行事も今年で10年の年数を重ねたが、当初から深く係わった方々の姿はチラホラであった。雨と風のなか労を惜しまず鎌を振る善意の登山は山頂まで続いた。

朝日連峰 祝瓶山登山道整備









幻のヌルミ沢大滝
7月18日(土)
捗る雨降るなか刈り上がるも思惑以上の雨に戸惑いを感じる。会長と山わっしゃこは草刈機を回し、高橋さん指導宜しく新会員2名は草創期以来の手法である鎌を振る。1100m辺りよりヌルミ沢岩壁を望めば一条の流れが幻の滝如く落ち霧に見え隠れさせていた。道刈りという修行の道のりをこなし山頂に到着するも帰り道の仕事が待つ故そそくさとヒドと化した登山道を下る。増水の沢を3本渡渉すれば安全圏に戻り、一仕事が済めばカーバイトに灯りが燈る。同宿の来客3人を招けばK2(8611m)日本初登頂者の重廣恒夫氏であった。貴重なお話をお聞きする事ができ生涯忘れられない一夜となろう。また、長井山岳会自慢のカーバイトの灯りとひっぱりうどんがえらく気に入ってもらえ親近感を覚える。翌朝、山わっしゃことsは三体山登山へと向かった。

朝日連峰 大朝日岳











ガンガラ沢(1985・9)

7月12日(日)
朝日と飯豊の取り付きは急登から始まるのは同じ話で、日暮沢コースもまた然りである。熊の逸話が多い清太岩山、熊糞山を越えれば竜門山の主稜線へと足は届く。風強くガスの登山道を行も視界がない分これまで何度となくおとずれた朝日が走馬灯の如く見え隠れしてくる。西朝日岳を下れば荒川中俣沢を溯った者と,この域に精通した者だけが知る清水を飲む。大朝日小屋に辿り着くも展望薄いピークは割愛し小朝日岳へ向かい下れば,金玉水方向に見られるマツタケ雪渓や蛤雪渓は未だ硬雪の一塊であった。大正8年8月、大島亮吉がY字雪渓を下り寒さに震えたと山岳紀行に紹介したガンガラ沢が右脚下に深い切れ込みを見せている。小朝日岳には搦み道があり大いに助かる。サンザノ峰(古寺山)を通過しハナヌキ峰で右へ行く古寺鉱泉への道を捨て,竜門の滝経由コースで今朝には犇めいていたが,今は人の子一人いない日暮沢小屋の建つ栃平に着いた。

飯豊連峰 大日杉小屋





昭和40年代後半、足繁く大日杉へ通ったものである。飯豊の精通者、山田長之助翁から多くを教えて頂いた昔が懐かしい・・

飯豊連峰 飯豊山











7月5日(日)
山の初めは息衝く。長之助清水が喉を過ぎれば山に入れた安堵の胸をなでおろす。山の源流である大日杉小屋は記憶ある昭和40年代と大きく様変わりさせ、傍らの大日沢だけが昔と変わらず坦々と流れているだけである。ダマシ地蔵を巻き、滝切合に進めば東滝からくる不遇の登山道は藪畳である。ここよりヒメサユリ、ニッコウキスゲ等が咲き乱れ、苦しさも消えうせる。御沢の雪渓登りは地下足袋ゆえ足が凍て付くようで閉口した。切合小屋で一本立て、急き立てられる様に飯豊山へ向かう。道々で多くの登山者と行き交うも、前ハチマキでナタを下げ、地下足袋を履く山わっしゃこの出で立ちは場違いの感を否めない。山頂に立てばガスは展望を断ち続け、下山する方が記念写真を取って下さると善意に収まる。ここまで来れたご褒美のミカンの缶詰を一人楽しみ踵を返す。帰り道は三国岳経由とし切合小屋で数本のタバコをくゆらし、地下足袋のツメを嵌める。1年ぶりの三国小屋で管理人の大関さんと親しく話をさせて頂く。地蔵山では路傍のおじぞうさんに手を合わせ、平頂の牛ヶ岩山を経て、真新しく道刈りされた五段山を下れば暮れなずむ大日杉小屋に着いた。